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点字タイプライター ― 2015年09月10日
嫁はんが点字タイプライターを借りてきて練習しているので何枚か写真を上げてみる。存在を聞いたことはあってもなかなか実物を見る機会は少ない機械。
英語で点字のことはbraille、点字タイプライターのことはbraillerという。これはブライユ式点字の考案者のBrailleさんに由来する単語で、固有名詞が一般名詞化したもの。
英語で点字のことはbraille、点字タイプライターのことはbraillerという。これはブライユ式点字の考案者のBrailleさんに由来する単語で、固有名詞が一般名詞化したもの。

通常の英文タイプライターは紙が動いてキーは固定されているが、この点字タイプライターは紙は固定でキーの部分が動くようになっている。紙送りの際は土台の右端についたハンドルを回す。
キーは点字の六点に合わせて左右に三つずつついており、手前から左右の人差し指、中指、薬指で押さえる。六点の内の必要な点を同時に押さえることで一文字分の点字が入力される。スペースキーも右手親指で押さえる場所についていて、これを押すと点は入力せずに左に一文字分移動する。
点字は凸面は左から右に読むが、このタイプライターではその逆の凹面を右から左に入力する。従って、キーの部分は入力すると右から左に一文字分移動する。左の隅に届く直前にベルが鳴って改行を促す仕組みは通常の英文タイプライターと同様。
構造としては、土台の左端からキー部分を引っ張るワイヤーがついており、ラチェットを直線にしたような三角歯と歯止めの組で一文字ずつ動くようになっている。キー部分の左上に歯止めを外すボタンがついていて、これを押すとキーを右に移動させられる(つまり行頭に戻せる)。

入力はシンプルで、ボタンと連動した針が、下にセットされた紙に凹を刻んでいく。この動きはボタンを押す力が反映されるので、力が弱すぎると点字が薄くなり、強すぎると紙が破れる。指による力の差を少なくするのは練習だとか。

ちなみに下から上に針が押されて、入力者から見て凸面が入力できるタイプライターもあるらしい。入力者が凸面に慣れていればそちらの方が良いのかもしれないが、点字板に点を打つことに慣れている人は凹面での入力の方が効率的なのだろう。
以下は入力された点字。ちょっと見にくいがこれは凹面。指で触るのは反対側の凸面。入力しているところのビデオも撮影したのだけど、asabloには載せられないようなのでfacebookの方に載せた (入力者の意思によりYouTubeには載せない)。

なぜ「ゲネプロ」なのか ― 2006年10月20日
某氏の日記 (Mixi) のコメント欄で「なぜゲネプロと言うのか」というテーマが出てきたので調べてみた。例によって武蔵野市立中央図書館で調べたため大した参考資料には当たれなかったのだけど、少しは見えてくる。音楽史については素人なので、外しているかもしれないし、専門家の中では常識的な話も大げさに書いているかもしれないし。適宜ご指摘いただければ。
●ゲネプロとは
音楽演劇関係者以外には馴染みのない言葉かもしれないので軽く解説。音楽や演劇の本番直前に、本番と同じ条件で通し練習をするのがふつうで、これが「ゲネプロ」と呼ばれる。辞書的には、ドイツ語で「総練習」を意味する Generalprobe (ゲネラルプローベ) の略。英語だと dress rehearsal (ドレス・リハーサル: オペラの場合) あるいは full rehearsal (フル・リハーサル) が相当。この辺は、手元の辞書にも。
つまり元々は、オペラや演劇で、衣装や大道具や小道具まで本番と同一条件に揃えて演出の確認したり [1]、普段は例えば楽章毎に細切れに練習している大規模な管弦楽曲を本番直前に通しで練習して全体の流れを確認したりするためのもの [2]。欧州でも大陸と英国では事情が違っていて、大陸諸国ではこの通し練習には、批評家や専門家や名士が招待されるらしい [3]。英国ではそんなことはなくて、純粋に練習となる。英国で公開される通し練習のことは public rehearsal と呼ばれ[2]、逆にドイツだと、公開されない最後の通し練習は Hauptprobe と呼ばれる [3]。ちなみに現在ではポピュラーミュージックのステージ1回分の通し練習にも使われることもある。
いつ頃から行われているかは調べきれていないが、少なくとも演劇や大規模管弦楽やオペラが登場する必要がある。音楽については古典派以降なので18世紀末以降か。演劇については、rehearsalという言葉がシェイクスピアのいた16世紀には既に使われていることから [4]、もうちょっと古いかもしれない。
●さて、日本におけるゲネプロ史
もともと日本の舞台芸術、たとえば歌舞伎では、衣装や大道具小道具まで揃えた通しの舞台稽古は行われてこなかった。歌舞伎では初日が舞台稽古に相当する。知人によれば能も「シテ方、ワキ方、囃子方(太鼓方、大鼓方、小鼓方、笛方)計6つの別々の流儀が一緒にぶっつけ本番で、一番限り」らしい (thanks to こうじくん)。従って、舞台での通し練習は西洋から輸入された概念であることは分かる。
とりあえず江戸中期までは無視しておこう。日本での西洋楽団は長崎の海軍伝習所に始まることになるだろうか。これが1854年 [5]。それまでは漂着した人が伝えた音楽くらいしかなかった (ジャズ大名 [6] みたいな)。居留地での西洋人の音楽家あるいは軍楽隊による演奏は幕末から始まっており、そこではオペラも上演されていたので [5]、本番前の舞台での通し練習はおそらく行われていたのだろうが、日本人の音楽家との接点はないのでこれもさておく。
宮内庁雅楽部で西洋音楽が始まったのが1874年 [7]。東京音楽学校の前身の文部省音楽取調掛の設立が1879年 [8]。当然これらの教師は西洋人なので、大規模な管弦楽やオペラなどの舞台では通し練習が行われていたと予想される。しかし、いつ頃から大規模な舞台で演奏が行われるようになったかは不明。1894年の日清戦争以降、軍歌が普及して洋楽が大衆化してきた。1903年に東京音楽学校卒業生によるオペラの上演 [9]。そして、1911年に帝国劇場が開場。このときには、初日前に舞台稽古を行う制度が設けられ、これが好成果を挙げたため、舞台稽古が一般化された [1]。つまりこの段階では既に、演奏者の間では舞台稽古を一般化するための土壌が育っていたことになる。余談として、帝国劇場の開場以降、歌舞伎でも新作などでは舞台稽古が行われるようになったらしい [1]。
さてこの1900年代初頭、ドイツの科学技術 (だけでなくて文化全般) が世界一だった頃になる。欧米でもドイツ文化が強かったし、日本も文化的にドイツに極めて傾倒していた。そして、東京音楽学校の教師もほとんどがドイツ人だった [9]。となると、この舞台での通し稽古がGeneralprobeと呼ばれていた可能性が極めて高い。これを学生が「ゲネプロ」と略して、主にオペラで使い始め、そこから演劇方面にも、音楽全般方面にも広がっていった、というのが真相ではないだろうか。
ちなみに山田耕筰がドイツに留学したのは1910年から3年間なので [10]、山田耕筰が広めた説はちょっと疑わしい。
[1] 平凡社演劇百科大事典 (1961)
[2] 平凡社音楽大事典 (1983)
[3] オックスフォード・オペラ大事典 (1996)
[4] Oxford English Dictioary.
[5] 笠原潔『西洋音楽の諸問題』放送大学教材 (2005)
[6] http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=86513
[7] http://www.lib.geidai.ac.jp/MBULL/31Tsukahara.pdf
[8] http://www.geidai.ac.jp/guide/outline/history.html
[9] 増井敬二『日本オペラ史〜1952』水曜社 (2003) (isbn:4880651141)
[10] Wikipedia「山田耕筰」
●ゲネプロとは
音楽演劇関係者以外には馴染みのない言葉かもしれないので軽く解説。音楽や演劇の本番直前に、本番と同じ条件で通し練習をするのがふつうで、これが「ゲネプロ」と呼ばれる。辞書的には、ドイツ語で「総練習」を意味する Generalprobe (ゲネラルプローベ) の略。英語だと dress rehearsal (ドレス・リハーサル: オペラの場合) あるいは full rehearsal (フル・リハーサル) が相当。この辺は、手元の辞書にも。
つまり元々は、オペラや演劇で、衣装や大道具や小道具まで本番と同一条件に揃えて演出の確認したり [1]、普段は例えば楽章毎に細切れに練習している大規模な管弦楽曲を本番直前に通しで練習して全体の流れを確認したりするためのもの [2]。欧州でも大陸と英国では事情が違っていて、大陸諸国ではこの通し練習には、批評家や専門家や名士が招待されるらしい [3]。英国ではそんなことはなくて、純粋に練習となる。英国で公開される通し練習のことは public rehearsal と呼ばれ[2]、逆にドイツだと、公開されない最後の通し練習は Hauptprobe と呼ばれる [3]。ちなみに現在ではポピュラーミュージックのステージ1回分の通し練習にも使われることもある。
いつ頃から行われているかは調べきれていないが、少なくとも演劇や大規模管弦楽やオペラが登場する必要がある。音楽については古典派以降なので18世紀末以降か。演劇については、rehearsalという言葉がシェイクスピアのいた16世紀には既に使われていることから [4]、もうちょっと古いかもしれない。
●さて、日本におけるゲネプロ史
もともと日本の舞台芸術、たとえば歌舞伎では、衣装や大道具小道具まで揃えた通しの舞台稽古は行われてこなかった。歌舞伎では初日が舞台稽古に相当する。知人によれば能も「シテ方、ワキ方、囃子方(太鼓方、大鼓方、小鼓方、笛方)計6つの別々の流儀が一緒にぶっつけ本番で、一番限り」らしい (thanks to こうじくん)。従って、舞台での通し練習は西洋から輸入された概念であることは分かる。
とりあえず江戸中期までは無視しておこう。日本での西洋楽団は長崎の海軍伝習所に始まることになるだろうか。これが1854年 [5]。それまでは漂着した人が伝えた音楽くらいしかなかった (ジャズ大名 [6] みたいな)。居留地での西洋人の音楽家あるいは軍楽隊による演奏は幕末から始まっており、そこではオペラも上演されていたので [5]、本番前の舞台での通し練習はおそらく行われていたのだろうが、日本人の音楽家との接点はないのでこれもさておく。
宮内庁雅楽部で西洋音楽が始まったのが1874年 [7]。東京音楽学校の前身の文部省音楽取調掛の設立が1879年 [8]。当然これらの教師は西洋人なので、大規模な管弦楽やオペラなどの舞台では通し練習が行われていたと予想される。しかし、いつ頃から大規模な舞台で演奏が行われるようになったかは不明。1894年の日清戦争以降、軍歌が普及して洋楽が大衆化してきた。1903年に東京音楽学校卒業生によるオペラの上演 [9]。そして、1911年に帝国劇場が開場。このときには、初日前に舞台稽古を行う制度が設けられ、これが好成果を挙げたため、舞台稽古が一般化された [1]。つまりこの段階では既に、演奏者の間では舞台稽古を一般化するための土壌が育っていたことになる。余談として、帝国劇場の開場以降、歌舞伎でも新作などでは舞台稽古が行われるようになったらしい [1]。
さてこの1900年代初頭、ドイツの科学技術 (だけでなくて文化全般) が世界一だった頃になる。欧米でもドイツ文化が強かったし、日本も文化的にドイツに極めて傾倒していた。そして、東京音楽学校の教師もほとんどがドイツ人だった [9]。となると、この舞台での通し稽古がGeneralprobeと呼ばれていた可能性が極めて高い。これを学生が「ゲネプロ」と略して、主にオペラで使い始め、そこから演劇方面にも、音楽全般方面にも広がっていった、というのが真相ではないだろうか。
ちなみに山田耕筰がドイツに留学したのは1910年から3年間なので [10]、山田耕筰が広めた説はちょっと疑わしい。
[1] 平凡社演劇百科大事典 (1961)
[2] 平凡社音楽大事典 (1983)
[3] オックスフォード・オペラ大事典 (1996)
[4] Oxford English Dictioary.
[5] 笠原潔『西洋音楽の諸問題』放送大学教材 (2005)
[6] http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=86513
[7] http://www.lib.geidai.ac.jp/MBULL/31Tsukahara.pdf
[8] http://www.geidai.ac.jp/guide/outline/history.html
[9] 増井敬二『日本オペラ史〜1952』水曜社 (2003) (isbn:4880651141)
[10] Wikipedia「山田耕筰」
茶を、しばく ― 2006年09月21日
某氏の日記に「茶をしばく」という表現について書かれていたのが気になっていたので、ちょっと図書館で辞書を引いてみた(*1)。武蔵野市立図書館なので、上方の方言俗語の辞書類の所蔵はたかが知れているけど、近所で一番参考図書類が充実しているので。
「しばく」という言葉は、「鞭や細い棒などで強くたたく」という意味 (小学館日本国語大辞典: 以下日国) では特に一部の地域だけで使われているわけではない。西日本が中心に使われているけど、北は山形から西は九州の方まで使われている。方言周圏論的。ちなみに語源は「撓る」(しわる)、つまり「力が加わったり重さがかかったりなどして、弾力のあるものが折れないで曲がる。しなう。たわむ」ということ (日国)。
さてこれが「茶をしばく」という風に使われる理由。こういうのは俗語辞典を探す。米川明憲編『日本俗語大辞典』(東京堂出版, 2003) に載っていた。曰く「食べる。飲む。もと大阪の河内・泉州の方言。関西のお笑いタレントが全国に広めた」だとか。これが現代用語の基礎知識1990年版を引いているので、おそらく1989年頃の話になるのだろう。 武蔵野市立中央図書館に1990年版が所蔵されていなかったので、原典には当たれていない。
1989年頃といえば、僕は高校生だった。僕は大阪の高校に入るまで泉州の方の人と付き合ったことがなかったけど、泉州から来ている人の中には、確かに「茶ァしばこか」などと言う人もいたかもしれない。しかしそれが、本来の泉州弁だったのか、「関西のお笑いタレントが全国に広めた」から使うようになったのかどうかは、時期が丁度重なっているので不明。
ここで、方言辞典も調べることになる。『現代日本語方言大辞典』(明治書院, 1994) には、泉州岸和田の方言も収録されている。しかし、少なくとも「食べる・飲む」という意味での「しばく」は載っていない。「食う」には「クー」「トリコム」「タベル」「クラウ」「カブル」が、「飲む」には「ノム」「スー」だけが載っている。強いて挙げれば「晩御飯を食べる」という意味の「シマウ」という言葉が載っている。載っていた用例では「ソロソロ シマオ」(そろそろ夕食を食べよう) というのがあった。しかしこれを「しばく」に繋げるのは、素人目には強引に思える。この他の大阪の方言辞典にも上方言葉の辞典にも、そういう「食べる・飲む」という意味での「しばく」は載っていない。
これから推理される可能性は二通り。第一は、泉州方言が標準的な大阪弁でないため、文字として残されていない可能性。僕のよく知る、戦前には船場唐物町の呉服問屋のお嬢だった生粋の大阪人によれば、河内や泉州の言葉は汚すぎて大阪弁とは認められへん、らしいので、大阪方言辞典を編纂する人が泉州の言葉を入れていないという可能性もある。特に「殴る」という別に意味が既にある言葉に、泉州ならではの意味合いを加えては書かないかもしれない、ということ。
第二は、上に挙げた俗語辞典が間違っている可能性。件のお笑いタレントが誰かは知らないが、「大阪の南の方ではこう言うねんで」と芸の一部として言ったに過ぎないものが、「もと大阪の河内・泉州の方言」と逆に辞書に取り入れられてしまったということ。これは、泉州に昔から住んでる人に聞いてみないと分からないな。
いづれにせよ、大阪の外で「茶をしばく」という表現を使うのは、1989年頃の大阪出身の芸人さんの影響によるものであろう、というのは、そんなに外してはいないと思う。
(*1) ちょっと前にMixiの日記に書いたのだけど、その後ちょっと情報を足して、ここに書いておく。
「しばく」という言葉は、「鞭や細い棒などで強くたたく」という意味 (小学館日本国語大辞典: 以下日国) では特に一部の地域だけで使われているわけではない。西日本が中心に使われているけど、北は山形から西は九州の方まで使われている。方言周圏論的。ちなみに語源は「撓る」(しわる)、つまり「力が加わったり重さがかかったりなどして、弾力のあるものが折れないで曲がる。しなう。たわむ」ということ (日国)。
さてこれが「茶をしばく」という風に使われる理由。こういうのは俗語辞典を探す。米川明憲編『日本俗語大辞典』(東京堂出版, 2003) に載っていた。曰く「食べる。飲む。もと大阪の河内・泉州の方言。関西のお笑いタレントが全国に広めた」だとか。これが現代用語の基礎知識1990年版を引いているので、おそらく1989年頃の話になるのだろう。 武蔵野市立中央図書館に1990年版が所蔵されていなかったので、原典には当たれていない。
1989年頃といえば、僕は高校生だった。僕は大阪の高校に入るまで泉州の方の人と付き合ったことがなかったけど、泉州から来ている人の中には、確かに「茶ァしばこか」などと言う人もいたかもしれない。しかしそれが、本来の泉州弁だったのか、「関西のお笑いタレントが全国に広めた」から使うようになったのかどうかは、時期が丁度重なっているので不明。
ここで、方言辞典も調べることになる。『現代日本語方言大辞典』(明治書院, 1994) には、泉州岸和田の方言も収録されている。しかし、少なくとも「食べる・飲む」という意味での「しばく」は載っていない。「食う」には「クー」「トリコム」「タベル」「クラウ」「カブル」が、「飲む」には「ノム」「スー」だけが載っている。強いて挙げれば「晩御飯を食べる」という意味の「シマウ」という言葉が載っている。載っていた用例では「ソロソロ シマオ」(そろそろ夕食を食べよう) というのがあった。しかしこれを「しばく」に繋げるのは、素人目には強引に思える。この他の大阪の方言辞典にも上方言葉の辞典にも、そういう「食べる・飲む」という意味での「しばく」は載っていない。
これから推理される可能性は二通り。第一は、泉州方言が標準的な大阪弁でないため、文字として残されていない可能性。僕のよく知る、戦前には船場唐物町の呉服問屋のお嬢だった生粋の大阪人によれば、河内や泉州の言葉は汚すぎて大阪弁とは認められへん、らしいので、大阪方言辞典を編纂する人が泉州の言葉を入れていないという可能性もある。特に「殴る」という別に意味が既にある言葉に、泉州ならではの意味合いを加えては書かないかもしれない、ということ。
第二は、上に挙げた俗語辞典が間違っている可能性。件のお笑いタレントが誰かは知らないが、「大阪の南の方ではこう言うねんで」と芸の一部として言ったに過ぎないものが、「もと大阪の河内・泉州の方言」と逆に辞書に取り入れられてしまったということ。これは、泉州に昔から住んでる人に聞いてみないと分からないな。
いづれにせよ、大阪の外で「茶をしばく」という表現を使うのは、1989年頃の大阪出身の芸人さんの影響によるものであろう、というのは、そんなに外してはいないと思う。
(*1) ちょっと前にMixiの日記に書いたのだけど、その後ちょっと情報を足して、ここに書いておく。
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